『寝ながら学べる構造主義』 〜システムの中の「私」〜
政治家はなぜ「政治家」でいられるのか。それは選挙で有権者から票を集めて当選するという客観的なプロセスを経たからだ。だから、今日から急に「政治家になりました」といっても誰も認めてくれない。政治家に限らず、ある人が所有している免許や資格、さらにはどこの社会階級や特定集団に属しているかなどで相対的に自己の存在が規定される。私たちは誰もが既に色のついたキャンバスにして自己としての「作品」を描く。そこには描くための限定された「道具」があり、他者の「作品」も特定の「サングラス」を掛けて見ているに過ぎない。ここでは、「個展」を出すことは不可能で、他者の作品と比較でのみ自己が表現される世界なのである。
自己の存在は、他者や社会といったシステム、すなわち構造の中に相対的にあるもので、こうした考え方を構造主義と呼んでいる。言い換えれば、「自由や自律性はかなり限定的なもので、所属する社会によって認知が限定される」ということである。言語学者ソシュールは次のように述べ、構造主義の父と言われている。「思考内容とは(中略)言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ」(『一般言語学講義』)つまり、ある言語を用いることは、すでにその言語及び社会システムの中でしか思考できないのであり、それこそが「自我中心主義」の脱却に他ならないのである。
『寝ながら学べる構造主義』は、構造主義という思想史が私たちにいかに影響を与えてくれるかを教えてくれる。例えば、「私」が日本史実についての論考をする。歴史は学校教育として学ぶが、その内容は文科省の検閲を経た「日本政府」にとっで「客観的」で「都合が良い」ものが選ばれている。もし日本史に「絶対的」な「掟」があるなら過ちは繰り返されない。歴史の流れは一つの糸から語られる「強者」の立場で、「本流から逸れた」「語られなかった」大多数は忘却されたる。言い換えると、私たちはあらゆる歴史の事象から残った「共通項」を奇跡的に共有しているだけだ。だから、おそらく「私」は将来の歴史に回収される。そして、そう考えるのは「私」の社会的階級が「時代の覇者」ではない「大人のあきらめ」がるからだ。
「寝ながら学べる」とは思えないが、タイトル通りに寝ながら学ぶくらいが丁度良いのかもしれない。突き詰めすぎると、「私」が相対化され過ぎて「狂人」になってしまいそうだ。ただ、自己を「絶対的なもの」はなく、「他者との相対物」とみなす思想は、根源的・本質的な問題の解答に「限りなく近づける」可能性を秘めていると言えるかもしれない。
※参考文献
内田樹、(2002 6 20)、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)
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