• Tom Kurihara

『天気の子』(考察編)

 非常に奥が深く、見れば見るほど味の出てくる『天気の子』。今回は、小説版『天気の子』を参考にしながら、重要な場面や監督の意図などを考察してみた。というのは、あとがきで新海誠監督は、「映画版と小説版の違いについて言えば、両者は基本的に同じものである」(小説版p.297)としているからだ。その原則は、「映画と小説では場合によっては仕込みが変わってくる。」にあるという。つまり、映像や音楽などで高銀号された映画と文字のみのである小説では演出が異なりつつも、この作品に関しては本質は同じということだ。それであれば、偏見なく映画の細部を理解し、解釈していくことができると考えたのである。以下、いくつかのテーマに分けて述べていきたい。


※以下、映画の本編の内容を深く考えていきます(ネタバレあり)。


なぜ穂高は豪雨の遭遇に喜んだのか?

 帆高はさるびあ丸に乗船中、強い雨が降るというアナウンスを聞いてデッキテラスに飛び出す。その理由は、小説版にて、「僕はようやく心の開放感に満たされていた。」(小説版p.18)と記述されている。実際、デッキテラスを確認し、人がいないと分かって喜んでいる。そこで、須賀が想定外の豪雨で船から滑り落ちそうになる穂高を助けたのだが、実際にはその先には手すりがあるので、船から投げ出される可能性は低かっただろう。須賀がさるびあ丸に乗っていた理由は、彼の仕事が非科学的な内容を扱ったエンタメ雑誌の執筆であったため、水配り伝説などの神津島特有の都市伝説的な話題の取材をしたのではないかと推測する。

『Catcher in the Rye(ライ麦畑でつかまえて)』

 穂高は『Catcher in the Rye』を持ち歩いている。アメリカ文学の最高峰の1つに出てくる主人公は、身近な人との喧嘩直後にニューヨークへ家出をする。それがちょうど穂高の理想像となっているようである。このことからも、穂高は大人と子どもの世界の間で葛藤するともに、大人や世界を代表する須賀との対立点を示する伏線となっている。


なぜ須賀はなぜ窓を開けて部屋を開けて、水浸しにしてしまったのか

 その前日、家出少年には捜索願いが出されていて、須賀の家には警察が来ていた。そこで、須賀は穂高を解雇し、追い出してしまった。彼はその夜、罪悪感を抱きながら一人で酒を飲んだ。次の日の朝まで雨は降り続き、半地下の事務所の外にはまるで水族館のように水が溜まった。須賀は、二日酔いと後味の悪さを感じながら、穂高をなぜ一度は受け入れたのかという「理由のないことを考え続け」た後、「何を考えるまでもなく、俺は窓枠に指を掛けた。」(小説版p.219・220)原作では窓枠に日々が入っていて水がちょろちょろと染み込んでいる。細部で映像との違いはあるが、いずれにしても須賀は穂高に対する言葉にならない、もどかしい後悔の念のようなもので頭がいっぱいのまま、理由もなく窓を開けてしまったと推測できる。


須賀が安井刑事の前で泣いてしまった理由

 解釈が割れるシーンの1つであり、この3人目の主人公にどういう眼差しを持つかで、この作品全体の解釈やニュアンス、評価まで変わってしまうだろう。

 須賀は、一人酒を夏美に起こされた後、こうつぶやいた。「人間歳を取るとさぁ、大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな。」須賀は「社会の規範順守>友情(と愛)」の図式を変えられないということである。これは、映画や小説の全体を通して一貫していて、言動にまったくブレは見られない。須賀は大人や社会の代弁者として帆高と対比させる人物として描かれているのだ。帆高を公平に分け隔てなく扱い人情的な側面もありながら、非科学的なものは一切信じない常識人というスタンスは最後まで崩されていない。

 安井刑事が事務所に再訪して、柱に刻まれた明日花と萌花の文字を見ながら須賀に話しかけた。この時の須賀の心理を次のように明確に描写している。「そこまで会いたい人、穂高にはいるのか。俺にはどうか。全部をふり投げてまで会いたい人。世の中全部からお前は間違っていると嗤われたとしても、会いたい誰か。」次に安井刑事に無意識に涙を流しているのを指摘しようと声掛けた直後はこうだ。「俺にも、かつてはいたのだ。明日花。もしも、もう一度君に会えるのだとしたら、俺はどうする。俺もきっとー。」会いたいのに会えない、そんな思いで涙が出てしまったのだろう。深く愛しいかった人を想いながら。


天気の巫女は陽菜の他にいるか?

 陽菜が局所的かつ短時間ではあるが、天候を晴れに変える能力を身につけたのは天空にある野原のような場所であった。作中では緑を持つ積乱雲は画面奥に複数見え、小説版の表紙にもその様子が描かれていて、そこには5つの積乱雲が確認できる。つまり、天気の巫女は、複数人いることだ。須賀と夏美が取材で訪れた神主は、その巫女に関して、「昔はどの村にもどの国にも、そういう存在がおったのだ。」(小説版p.142)と言っている。これらを総合的に考えると、同時代に複数いたことが伺える。ただし、天気の巫女が限定的な能力であったことは都市化する街の規模と合致しない可能性もある。

 では、このストーリー中に他に晴れ女が存在していたか。最初の候補は陽菜の母親だ。彼女は意識が戻らない状態で何ヶ月も病床に伏している。急に消えたという描写もないので可能性は低いだろう。特定のアクセサーを身につけていただけでは決定的で論理的な証拠にはならない。

 次に、須賀の亡くなった妻、明日花である。こちらは2年前に事故で死んだとある。ここで、須賀はあくまで穂高とは対極の位置にいるため、「帆高ー陽菜」の関係が「須賀ー妻」のそれとは一致しない。須賀は世界と愛する人を選択したというわけではないのだ。ここで強引に、天空に登ると記憶が消えると言った設定も入れたとしても、帆高や陽菜に当てはまらない。陽菜に会う前に、立花のおばあさんを尋ねたときに次のように思っている。「思わず全部告白したくなる。東京から青空を奪ったのは僕の決断だったんです。」(小説版p.282)。

 ただし、須賀の妻が晴れ女であった可能性はかなりある。まず、須賀の子どもである萌花は祖母、つまり須賀は実の子どもと住むことが許されていない。また、萌花は雨の日は喘息がひどくなってしまう。さらに夏美は、数年前ん事故について、「あの頃の話はちょっと複雑すぎる。ちょっと重すぎる。今でもちょっと辛すぎる。」と言っている。また、陽菜の家の窓際に掛かっている装飾と須賀の事務所のそれが非常に似ているという細かい設定も気になる。

 これらの伏線を回収するためには、例えば次にような仮説を立てられる。明日花は、喘息の娘が外で遊べるよう晴れを祈って鳥居を通った。そして晴れ女になる。しかし、娘のために能力を使いすぎて体が消え、ある日一気に忽然と姿を消す。須賀は失踪の容疑をかけられ、親権が奪われているという設定で、この方が上記設定や細かいセリフが伏線としての意味を持つからだ。もちろん様々な解釈や考察に幅が出てくるのは絶対的な証拠がないからであるが、それが作品の魅力の一つでもあるとも言える。

陽菜のチョーカー

 水のアクセサリーが最初に出てくるのは、陽菜の母親が病室でブレスレットとして身につけている場面だ。その後、陽菜が形見として身につけているのだが、そのときにすべて晴れ女の能力がある。そして、穂高によって陽菜が地上に戻ってきたときに、そのチョーカーは割れていた。これ以降は晴れ女ではない。したがって、このアクセサリーは天気の巫女から解放された(チョークされていない)ことを暗示してるのであろう。


リアルで美しい描写とミュージカル的な劇中歌

 作中の描写がリアルで圧倒的な美しさがあり、これが多くのファンを生み出した要因の一つではないだろうか。一方で、この描写は、社会問題を含めてより身近なものに感させる新しい問題提起の手法でもあるように感じる。後先を考えずに銃を持ち歩き、感情的に行動してしまう癖がある帆高。貧困家庭で止むを得ずに年齢を偽って働き、挙句に水商売に手を出そうとする陽菜。ラブホテルのジャンクフードをご馳走だといってはしゃぐ凪。リアルに東京を描く手法は、私たちが抱えているキレやすい若者、各社社会と貧困問題など、臭いものには蓋をしている「普通でないこと」を客観視するツールになっているとも言える。

 また、この映画の絶賛ポイントの1つは劇中の音楽である。楽曲と描写のマッチングが良すぎるのだ。陽菜が「ねぇ、今から晴れるよ」と言って太陽の光が指す場面、六本木ヒルズの花火大会で花火の間を走り抜ける空中移動の描写はインストメンタルながら神秘的な雰囲気を醸し出している。さらには、『祝祭』『グラウンドエスケープ』、『大丈夫』そして主題歌『愛にできることはまだあるかい』など名曲がずらりと並び、それぞれがストーリーとの繋がりを意識されている。アニメーションとミュージカルを相互に行き来しているような錯覚になるだろう。小説版の深海誠監督のあとがき及び音楽担当の野田洋次郎氏によると、小説を受け取ってから楽曲制作を作成し、ラストシーンには一度没になった曲から着想を得ている。結果的にこれが絶妙なシナリオとなり、深海監督の狙っていた賛否両論を引き起こす衝撃の一撃を生み出すことになった。私は映画のクライマックスとして最高の演出だったと思っている。

銃の意味

 この映画の評価が二分されてしまう要因に銃の設定があるのではないかと思う。この銃の登場である程度の展開が若干読めてしまうだろうし、リアルな描写しつつもこの銃を巡って警察に追われる設定または実際に逃走する様子に親近感が湧かないのだ。後述するように、この映画は、クライマックスの「個人の愛・信念ー社会の安定・平穏」の対立構造である。晴れの引き換えに消えていく陽菜がいて、穂高がその自己犠牲をした彼女と世界(天気)を天秤に掛けたときにどちらを救うかこの映画のメインテーマのはずだ。ところが、銃が登場したことで、穂高は様々な場面で逃げることになる。つまり、「不法者・無秩序因子の帆高・陽菜ー秩序保全としての須賀・警察」という二重構造ができてしまった。そのため、最後の場面とうまく整合性が取れないのだ。大人や権威からすれば彼らは明らかにアノマリーであり、それを安定させようとする須賀(大人)や刑事(社会監視システム)は合理的な行動をしているだけである。主人公に感情移入が持てなければ、最後のシーンで監督が意図している深いテーマも感動のシーンの意味が伝わりにくくなったと思うのである。

 例えば、あの銃を登場させないストーリーにしてみる。客引きにはボコボコにされてしまうが、陽菜との繋がりが始まる。須賀には噛み付いているのだからこれ以上の演出を不要にする。深海監督ではあればこの部分を違った、それも私たちには思いつかいない斬新な物語を作り出すと期待してしまうのだ。

最後のシーンで陽菜が祈っていたこと

 あの時、あの場所で彼女が祈っていたことは何か。それは晴れを願った祈りではなく、世界を変えたことへの懺悔である。その証拠に手の組み方が異なっている。最も重要な場面で手の組み方を逆にしたことで、自分がこの世界を選ぶことを祈ったことへの良心の呵責を暗示している。穂高は、世間の人が雨が降り続いても人々は相変わらず日常を営み、そのことで穂高自身もその重荷を背負っている。自分が世界を変えてしまったことに納得できる理由がなく、陽菜との再会時の慰めのような言葉も見当たらない。ところが、陽菜は自分の選択を信じている。そして「君の小さな方に世界が乗っているのが僕には分かる。」というのが曲にオーバーラップしているのである。そして穂高は、陽菜の姿を見て、本当の自分たちの意味、過去・現在・未来がすべてつながったのである。

 英語の副題”Weathering with You”では、”weather”が自動詞で使われている。「君と耐える」という意味で、名詞「天気」と掛けているのである。これがバックに流れる「大丈夫」と重なってダブルミーニングとなっている。自分を犠牲にして世界を守るという王道とは逆のパターンを作り出すことで、斬新な結末を迎えている。

 さらに言えば、自分の道を突き進む自信を持たせる応援歌になっているようにも感じる。なんとなく閉塞感が漂い、自分喪失の時代にいる中で、自分の信念を信じてそれを行動に移す。だから、穂高が陽菜を助けにいく天空のシーンでのセリフが太く確かな伏線として、そしてこれが観賞後の大きな1本のメッセージを残してくれているのだ。

「もう二度と晴れなくても良い!青空よりも、俺は陽菜が良い!天気なんてー、狂ったままで良いんだ!」

※参考文献

新海誠、(2019 7 19)、『天気の子』コミックス・スウェーヴ・フィルム

新海誠、(2019 7 25)『小説 天気の誠』角川書店





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