子どもの「学び合い」を創造するために ―佐藤学『教育改革をデザインする』を読んで― (Revised Ver.)

August 20, 2016

 国家財政の破たんを起因とする第三の教育改革は、新自由主義のもとで過度の個人主義と市場競争原理に基づく脆弱な教育政策を打ち出し、誤ったポピュリズムも学校や教師を窮地に追い込んでいる。その一方で、2006年に中央教育審議会から出された『今後の教員養成・免許制度の在り方について』では、「学びの共同体としての学校の機能(同僚性)が十分発揮されていないという指摘もある」として、教師の同僚性について言及している。本稿は、こうした相反する教育政策・理念の中で、学校・教師はどのように生徒の「学び合い」を創造していくために「学び合う」必要があるかを、佐藤(1999)の『教育改革をデザインする』を基軸にして考察する。

 昨今の新自由主義の過激な末路は、橋本大阪市長率いる大阪維新の会が掲げた「教育基本条例案」にたどり着くことになった。教師には指導の明確な評価が課せられ、その結果は、教師への相対評価として不可避的に個人の責任として突き放される。業績を残そうとする「良い教師」は過大評価を受け、子どもに寄り添い、共に「学ぶ」教師は、非効率的・非生産的として一定の割合で排除のレッテルを貼られる。教師は、生き残りを掛けて、子どもを通して同僚という「競争相手」に立ち向かわなければならない。そこには、教師が反省しながら子どもや他の教師、地域・家庭と一緒に学んでいくという「同僚性」や「反省的実践家」といった言葉は見当たらない。

 このことは、経験からも十分に想定されることである。ある学校は、国公立大学の進学者が県内トップの進学校であり、熾烈な私学の競争の中で定員充足率を満たした。しかし、業績主義に傾倒した学校内の教師文化は荒廃していた。授業は、放課後の補習授業も含め、「授業評価」という名の下ですべてが得点化されるとともに、それによってすべての教師を序列化した。「優秀な教師」は、「良い生徒」の指導に充てられ、逆に「業績」を残せない「優秀でない教師」は、立ち直りの機会を失い、指導意欲が低下するという悪循環に陥っていた。授業は、そうした抑圧的な「評価」の対象であって、授業改善から共に成長していこうとする「校内研修」の意義は存在しない。

 このような事象の根幹にあるものは、教師の「学び」に対する正当な教育哲学の欠如だと考える。前近代は、正統的周辺参加の理論が中心となり、その後、学校がその社会の中で子どもの教育の中心を担うようになった。学校は、いかに「知識の量」を子どもに詰め込むかに焦点が当てられ、より優秀な人材を社会へ送り込むことが善とされた。ところが、子どもは、国際競争社会、グローバリゼーションといった様々な環境の変化の中で、学校知の「受動的享受者」から「能動的活用者」へと変貌した。高橋(2002)は、こうした流れを歴史人間的視点から子どもの成育環境状況が農耕型社会の「ミメーシス・パラダイス」、工業型社会の「開発パラダイム」を経て、現在は、消費型社会の「自己選択パラダイム」であると整理し、子どもは、人材育成を主眼にした工業化社会的な学校教育観の下、「プログラム化された教育を受け、プログラム化された走路を走っている」ことを鑑がみれば、今、求められていることは「この広い世界の中で、他者と出会い、知己を学び、その生活世界を何度も発見し、見直していくべきではないか」と主張している。つまり、従来の学校教育の持つ理念やシステムの在り方と現在の社会状況と子どもの姿との間に大きな齟齬が見られるのだ。従って、佐藤の「勉強から学びへの転換がなされなければならない」という言葉ほど、今の失われている教育哲学を表現しているものはないと感じるのである。

 そもそも学びとは何かを考えるとき、それは未知の世界との遭遇であり、そうした経験を通して人は大きく成長できる。つまり、「学び」は、自己完結するものではなく、自分自身を開示しながら、他者との関係性の中で経験として構築していく作業である。よって、子どもは「学び合う」ことで成長するのであって、「学びのつながり」が重要な役割を果たすのである。さらに、こうした子どもの「学び合い」は必須の要件であるからこそ、教師が「学び合い」の中で「学び」の追求をしなければ、子どもの「学び合い」を保障することは難しい。

 このように考えてくると、「学びの共同体」の基礎となっている「教育の公共圏の維持」「民主主義」「共同体」は、これからの教育ビジョンとして欠かすことができない規律である。すなわち、私は、教師は知識・技能の伝達者であるとともに、①教室における「学び」のコーディネーター、②地域協働型の学校運営者、③同僚性を持って専門家を育てる校内研修、の3つの要素が重要であると考える。

 まず、教師は、教室の中で、その主たる行動を子どもの「学び合い」を調整する役割を担う必要がある。まさに「無媒介的な活動」・「個人主義」・「知識・技能の蓄積」といったワードは、私の中学校・高等学校の「学習」の本質が「受験勉強」だったことを代弁してくれている。一方、オーストラリアへの長期留学で経験したELICOS(TAFEの下部組織)での授業は、まさに「仲間との交流」を通して「意見を交換」をし、「活動的で協働的で反省的な学び」であった。どの授業においても知識や技能をモノローグ的に教授することはない。例えば、教師の発問は、予定調和的な問答を導くものではなく、むしろ<生徒―教師>、または<生徒―教室>のダイアローグとなっていた。失敗から多くのことを学ぶことができるとともに、授業は生徒が作るという活気に満ち溢れていたように感じる。また、<生徒―生徒>のダイアローグを通して学ぶことも多かった。仲間の表現力や思考のプロセスは、独学では決して気付くことがない気付きや感動を私に与えてくれたし、その学習過程における様々な試行錯誤は、自身のアイデンティティまでを模索する契機となった。そこでは、教師の役割は、生徒同士の「学び合い」が成立するように、授業をコーディネートすることにあった。世界的に見ればこうした指導方法・形態はまったく珍しいものでなく、むしろ日本の一斉授業がいかに異質なものであり、今後の修正の必要性を証明しさえすると感じるのである。

 第二に、地域協働型の学校運営として、地域のネットワークの中核を担うことである。文献では、「参加学習型」の浜之郷小学校が紹介され、「教師と父母の打ち合わせ」という説明書きのついた写真はその活動における真剣さが伝わってくる。地域協働型では、教育の主体は子どもであり、教師であり、市民であることを体現できるとともに、子どもは学校・教師の枠を超えた「様々な人々が共に生きる」ことの意味を学ぶことができる。私は、ここでも教師がそうした活動において、家庭や地域の人々に「教える」といった立場ではなく、その多種多様な価値観・能力と言った人材・物質資源を最大限生かすためのコーディネーターとしての役割を果たすことが求められていると考える。一方で、この地域協働型の学校運営は、昨今の「開かれた学校」の多様な展開に反して、困難が多いとも言える。なぜなら、まず、都市化や経済格差によって地域や家庭に学校を支える余裕がないということである。また、学校側もあくまで学校を「支援してもらう」といった学校中心本位的な姿勢は、いっそう地域や家庭との信頼関係を失うことになるだろう。そして、そもそも地域や家庭が、例えば、大阪維新の会が誤った教育理念を扇動しているように、必ずしも望ましい教育哲学や論理を備えているとは限らない。だからこそ、学校が地域のネットワークの中心になり、「参加型学習」のコーディネーターとなることが求められるのであり、ここに専門家としての力量が問われ、校内研修の重要性を浮き彫りにしている。

 従って、第三に、同僚性を持って専門家を育てる校内研修を充実させることである。「学びの共同体」の校内研修の視点は、研修そのもの概念を捉え直す契機となる。過去の経験を振り返っても、校内研修は、一種の若手の登竜門のような位置付けで、授業者の発問や板書の優劣といった一挙一動を一方的に批判されることが主流であったため、それは、「逃げ切ること」が最終目的となってしまっているように感じる。これを是正するためにも、佐藤(2006)が述べた校内研修の基本原則、①話し合いの対象は「子どもがどこで学んでいたのか、どこでつまずいていたのか」の事実、②参観者は「学んだこと」を述べ、その多様性を交流する」、③最低1回の発言で民主的な討議とする、の3つが守られるべきだ。このような視座で、村上(2005)らが提唱するワークショップ型研修に改良を加えると、より子どもの「学び合い」を促進することができるのではないかと考える。なぜなら、ワークショップ型研修は、「『違い』が出れば出るほどおもしろい」ものになるし、「むしろその『違い』にこそ価値がある」からである。特に、付箋を用いたポスターセッション型の場合、世代や教科の壁を越えた発言が活発になる。よって、その発言の内容が、子どもの「学び合い」を促進しようとするという原則を踏まえれば、教師も「学び合い」の姿勢で取り組み、「校内研修」をより率先して行いたいと思うだろう。

 急激に変化する社会の中、ますます多様な人々との共生が求められる時代に、新自由主義的な政策を公教育の中に導入することに無理がある。むしろ、こうした時代に学校や教師に求められていることは、子どもが「学び合い」の中で「学び」を創造していくことである。従って、これからの時代は、教師は「学びの共同体」が掲げる社会民主主義の教育理論が重要な役割を果たすことを十分認識してうえで、「学び合い」のコーディネーターとなるとともに、家庭・地域との連携・協働を十分に模索し、同僚性を発揮しながら子どもの「学び合い」を保障する専門家であることが必要だと考える。

 

 

※参考文献

Tom (2011)  GHF'03「誰かが一言」(一部訂正)

佐藤学(1999)『教育改革をデザインする』岩波書店

佐藤学(2006)『学校の挑戦 ―学びの共同体を創る―』

高橋勝(2002)『文化変容の中の子ども ―経験・他者・関係性―』

村上正弘(2005)『ワークショップ型研修のすすめ』

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